エージェントとして8年、年間100名以上の転職決定に関わってきた。候補者から最も多い質問がこれだ。「年収交渉って、エージェントさんが全部やってくれるんですよね?」
やっている。だが、候補者が想像する「交渉」と筆者が実際にやっていることには、かなりの距離がある。
年収交渉は面接が始まる前から動いている
「内定が出てから年収交渉」と思っている候補者は多い。間違いではないが、エージェント側はもっと前——求人を紹介する段階で布石を打っている。
具体的に何をやるか。企業の人事に推薦状を送るとき、「この候補者の現年収は〇〇万円です」と書くだけでは足りない。市場のレートで言うと同等スキル・同等経験年数の決定年収帯はこのレンジです、と添える。ここが勝負の起点になる。企業は個人の希望には抵抗できるが、市場データには逆らいにくい。求人票の想定年収より上でも、市場データが裏付けていれば、人事は稟議を通しやすくなる。
もうひとつ。推薦段階で「この候補者には並行して〇社オファーが出る可能性があります」と伝えることもある。煽りではない。事実を共有しているだけだ。だが企業の動きは明らかに早くなるし、オファー金額も上振れする傾向がある。
エージェントの利益構造を知っておくべき理由
エージェント側の事情を明かすと、人材紹介の報酬は「決定年収の30〜35%」が業界の標準だ。候補者の年収が600万円なら180万〜210万円、1000万円なら300万〜350万円がエージェント企業の売上になる。
つまり構造的に、候補者の年収が上がればエージェントの売上も上がる。利害は一致している。ここまではよく言われる話だ。
問題はその先にある。
年収交渉が長引いて内定が流れれば、売上はゼロ。エージェントには「確実に着地させたい」圧力が常にかかっている。候補者の最大値とエージェントの最適値は、重なるようでいて微妙にズレる。たとえば市場データ上は1200万円まで狙えるが、企業が1050万円で渋っている場合、エージェントは「1050万円で決めましょう」と候補者に勧めることがある。150万円の差は候補者にとっては大きいが、エージェント側から見れば手数料差は45万円程度。それより内定流出のリスクをゼロにしたい——こう考える担当者がいるのは事実だ。
だから、エージェントに任せきりにするのは得策ではない。構造を理解した上で「任せる」のと、中身を知らずに「丸投げする」のは別の行為だ。
筆者が年収アップ率+18%を出すためにやっていること
筆者の担当した候補者の年収アップ率は平均+18%、最高で+45%だった。何か特殊なテクニックがあるわけではない。やっていることはシンプルだ。
まず、候補者に「面接では希望年収の具体額を言わないでください」と伝える。面接官に「希望年収は?」と聞かれたら、「御社の評価に委ねたい」と答えてもらう。
以前支援したITシニアエンジニアの転職が典型例だ。現年収700万円、本人の希望は「1000万円いけたらうれしい」だった。だが筆者が直近3ヶ月の同ポジション決定年収データを見ると、1100万〜1400万円のレンジに入る材料があった。企業には「市場レートは1200万円前後です」と先に伝え、候補者には数字を言わせなかった。結果、1300万円で決定。本人が最初に「1000万円」と言っていたら、企業はそのまま1000万円でオファーを出していただろう。言わなかったから、市場の値段で着地できた。
年収交渉のレバーは3つだけだ。市場データ、他社オファー、そして「言わない」という選択。この3つをエージェント側で操作するのが、裏側で起きていることの本質になる。
2026年の交渉環境——候補者に追い風か
2026年の転職市場はどうか。dodaの発表によれば、2026年4月時点の転職求人倍率は2.38倍。type社のデータではITエンジニアの新規求人倍率が2.9倍(2026年3月時点)と、依然として高水準を維持している。
加えて、2026年春闘で5%超の賃上げが実現した。企業の採用現場でも「前職より下げたら採れない」という認識が定着しつつある。ここ数年で年収交渉のハードルは最も低い時期にある、と筆者は見ている。
ただし、手放しで楽観はできない。ITエンジニアの新規求人倍率は2025年3月の4.0倍から2026年3月の2.9倍へ、わずか1年で1.1ポイント下がった。「量の採用」から「厳選採用」へシフトしている。年収は上がりやすいが、そもそも内定を勝ち取るハードルが上がっている。先日、丸の内でランチしながら後輩のエージェントと話したが、「最終面接通過率が去年より明らかに落ちている」という体感は一致していた。
エージェントを味方につける候補者の共通点
8年やってきて、年収交渉がうまくいく候補者には共通項がある。
「いくらほしい」ではなく「市場で自分はいくらの値段がつくのか」を聞いてくる人。この姿勢があると、筆者も手持ちのデータを全部出す。朝の市場分析で拾った業界別年収レンジ、直近四半期の同ポジション決定年収の中央値。こういう数字は、聞いてくる人にだけ渡す。
それから、条件に優先順位をつけている人は交渉がまとまりやすい。「年収は900万でいいが、リモート週4は譲れない」「年収1200万ならフル出社でもいい」のように、トレードオフを自分で整理できている候補者は強い。交渉にはカードが要る。何かを譲るから何かを得る。全部を譲れない人は、結局何も得られない。
最後に、エージェントに本音を言う人だ。「今の上司が限界で」「実は休職歴があって」——こういう情報を隠されると、筆者は最適な企業を選べない。ミスマッチすれば半年で辞めてクレームになる。それはエージェント側も避けたい。正直な人ほど、結果的に良いオファーを引き出せる構造がある。
FAQ
面接で希望年収を「答えない」と印象が悪くなりませんか?
「御社の評価に委ねたい」は面接官にとって不快な回答ではありません。根拠なく高額を提示されるほうが評価は下がります。企業も「最終的にはオファー面談で調整する」前提で選考しているため、一次面接で金額を出す必要はありません。
エージェントなしで直接応募した場合、年収交渉は不利ですか?
不利ではありませんが、難易度は上がります。エージェント経由なら企業の予算レンジ(求人票に出ていない裏の上限額)を把握しているケースが多い。直接応募の場合は、dodaやリクルートエージェントが公開している年収データで同職種の相場を事前に調べておくことが代替策になります。
年収交渉で内定が取り消されることはありますか?
筆者の8年間で、年収交渉が直接の原因で内定取り消しになった事例はゼロです。ただし「オファー年収の1.5倍以上を要求する」「承諾後に金額を再交渉する」といった行為は信頼関係を壊します。市場データの裏付けがある範囲内の交渉であれば、マイナス評価にはなりません。
転職エージェントは何社使うのが適切ですか?
2〜3社が目安です。1社だけだと比較する情報がなく、4社以上だと連絡管理のコストが跳ね上がります。重要なのは「年収交渉を任せるメインエージェント」を1社に絞ること。複数のエージェントから同じ企業に推薦されると二重応募扱いでどちらも無効になるリスクがあります。
参考文献
- 転職求人倍率レポート(2026年4月) — doda
- ITエンジニアの有効求人倍率は?2026年5月の最新動向と採用のコツを解説 — type
- 転職エージェントに年収交渉は可能?交渉のポイントやタイミング・年収相場を解説 — リクルートエージェント
- 転職時の年収・給与交渉のタイミングと失敗しないポイント — LHH転職エージェント





