「上司がつらい」「もう限界です」と人事に相談したのに、翌週も翌月も何も変わらない。そんな経験をした人は少なくないはずです。

厚生労働省の令和5年度「職場のハラスメントに関する実態調査」によると、勤務先がパワハラを認識した後の対応で最も多いのは「特に何もしなかった」で53.2%に達しています。つまり、半数以上の職場で「認識はしたが動かなかった」という事態が起きているのです。

この数字だけ見ると「人事は頼りにならない」と感じるかもしれません。しかし、採用側の論理で言うと、人事が動かないのは怠慢ではなく、相談の受け取り方と動かし方に構造的な問題があるケースがほとんどです。

私は上場企業の人事部で20年間、採用責任者として1500名以上を選考し、退職面談は1000件を超えました。その中で「人事に相談したのに何もしてくれなかった」と語る退職者には、ある共通パターンがありました。

今回はその構造を3つに分解し、相談を「動く案件」に変えるための伝え方を解説します。

人事に相談しても「何も変わらない」3つの構造的理由

理由1:相談が「感情の吐き出し」で止まっている

退職面談で「人事に相談した」と語る方に「どう伝えましたか」と聞くと、多くの場合こう返ってきます。

「上司がつらいです」「もう無理です」「雰囲気が悪い」

気持ちは痛いほどわかります。しかし、人事部の評価会議では「つらい」という言葉だけでは案件として起票できません。人事は個人の感情ではなく、「組織に影響が出ている事実」を根拠に動く部署です。

具体的に言えば、以下の情報がなければ人事は対応の優先順位をつけられません。

  • いつ、どんな場面で、何を言われた(された)のか
  • それが1回の出来事なのか、継続しているのか
  • 業務や体調にどのような影響が出ているのか

感情を伝えることは間違いではありません。ただ、感情だけでは人事の「動く理由」にならないという構造を知っておくことが重要です。

理由2:人事には「すぐ動けない制約」がある

相談を受けた人事担当者が「これは問題だ」と感じても、翌日に上司を異動させることはできません。人事部の行動には常に制約がかかっています。

  • 事実確認の義務:一方の主張だけで処分や異動を行えば、逆にコンプライアンス違反になる
  • 複数部署との調整:異動・配置転換には関係部門の合意が必要
  • 評価サイクルとの連動:人事異動は四半期や半期の評価タイミングに合わせて動くことが多い

つまり、人事が何もしていないのではなく、水面下で動いているが目に見える変化として表れるまでに時間がかかるケースが少なくないのです。

ただし、ここで重要な注意点があります。「時間がかかる」ことと「放置している」ことはまったく別です。相談から2週間以上何のフィードバックもない場合は、進捗を確認する権利があなたにはあります。

理由3:「誰にも言っていない」が長すぎて手遅れになっている

退職面談で本当に言われるのは、「もっと早く相談すればよかった」という後悔です。

パーソル総合研究所の調査によると、メンタルヘルス不調を職場に相談する人は全年代で2人に1人にとどまります。さらに、メンタル不調による退職者のうち職場に相談した20代はわずか45.1%です。

私の退職面談の経験でも、限界を超えてから初めて人事に駆け込む人が大半でした。しかし、その時点ではすでに「辞める」という結論が固まっており、人事がどんな手を打っても間に合わないのです。

朝6時に起きてヨガで頭を整理する時間を取っている私ですが、退職面談の朝だけは気が重くなります。「なぜもっと早い段階で拾えなかったのか」と毎回自問するからです。

人事を「動かす」相談の伝え方3ステップ

ステップ1:事実を「日時・場面・発言」の3点セットで記録する

感情を排除する必要はありません。ただし、感情の根拠となる事実を一緒に伝えてください。

記録のフォーマットはシンプルでかまいません。

  • 5月8日(木)15時、会議室Bで、上司Aから「こんなこともできないのか」と他のメンバー3名の前で言われた
  • 4月以降、同様の発言が週2〜3回のペースで続いている
  • 睡眠が取れなくなり、4月下旬から心療内科を受診している

このように時系列で事実を並べることで、人事は「これは対応すべき案件だ」と判断できます。

ステップ2:「どうしてほしいか」を1つだけ伝える

相談時に「とにかく何とかしてください」と言いたくなる気持ちはわかります。しかし、人事にとって最も動きやすいのは、要望が具体的で1つに絞られている相談です。

  • 「上司との1on1を第三者同席に変えてほしい」
  • 「別チームへの異動を検討してほしい」
  • 「まず事実関係の確認だけしてほしい」

要望が複数あると、人事は優先順位が決められず結果として何も動けなくなります。1つに絞ることで、人事の行動を引き出せます。

ステップ3:2週間後に進捗を確認する「フォローアップ面談」を約束する

相談は1回で終わらせないでください。相談の最後に「2週間後に進捗を教えてもらえますか」と伝えるだけで、人事の優先度は格段に上がります。

これは人事を責めるための行動ではありません。人事の側にも「この案件は対応の期限がある」と認識させるための仕組みです。退職面談1000件の経験で断言しますが、フォローアップの約束があった案件と、なかった案件では、対応スピードに明確な差がありました。

それでも動かない場合の選択肢

上記の伝え方を実行しても状況が変わらない場合、社外の選択肢を視野に入れてください。

  • 社外相談窓口:厚生労働省の「総合労働相談コーナー」は全国の労働局・労働基準監督署に設置されており、無料で利用可能
  • 産業医面談:産業医には守秘義務があり、人事を通さずに相談できるケースもある
  • 心療内科の受診:診断書があることで、人事が動く根拠が強化される

厚労省の同調査では、パワハラを受けた人の36.9%が「何もしなかった」と回答しています。その理由の最多は「何をしても解決にならないと思ったから」(65.6%)でした。

しかし、これは「解決にならなかった」のではなく、「伝え方と伝える先の選び方を知らなかった」ケースが大半です。諦める前に、まず今回紹介した3ステップを試してください。

よくある質問(FAQ)

Q1. 人事に相談すると上司にバレませんか?

人事には守秘義務があり、相談者の同意なく上司に直接伝えることは原則ありません。ただし、事実確認の過程で上司へのヒアリングが必要になる場合は事前に相談者に確認を取ります。相談時に「現時点では上司に伝えないでほしい」と明確に伝えておくことで、情報管理の範囲をコントロールできます。

Q2. メールや社内チャットで相談しても大丈夫ですか?

記録が残るという点ではメールやチャットでの相談は有効です。ただし、ニュアンスが伝わりにくく誤解を招くリスクがあるため、最初の相談は対面(またはオンライン面談)で行い、その後のやりとりをメールで残すのが理想的です。

Q3. 相談してから異動や配置転換が実現するまで、一般的にどのくらいかかりますか?

企業規模や組織構造によりますが、事実確認に2〜4週間、異動の調整に1〜3ヶ月が一般的です。人事異動は評価サイクルに合わせて実施されることが多いため、相談から実現まで数ヶ月かかることも珍しくありません。その間の暫定措置(1on1の同席者変更、業務分担の見直し等)を要望することで、待機期間の負荷を軽減できます。

Q4. 人事がない小規模企業の場合はどうすればいいですか?

従業員50人未満の企業ではメンタルヘルス対策実施率が低いのが現状です。社内に専門窓口がない場合は、厚生労働省の「総合労働相談コーナー」(全国380カ所以上)や「こころの耳」電話相談を利用してください。外部からのアプローチが、結果的に社内の対応を促すこともあります。

Q5. 証拠がなくても相談して意味はありますか?

あります。証拠は「あると強い」ですが、「ないと相談できない」わけではありません。相談した事実自体が記録として残ります。ただし、今後のために日時・場面・発言内容のメモを取り始めてください。スマートフォンのメモアプリで十分です。

参考文献

  • 厚生労働省「令和5年度 職場のハラスメントに関する実態調査 報告書」(令和6年3月公表)
  • パーソル総合研究所「若手従業員のメンタルヘルス不調についての定量調査」(2024年)
  • 厚生労働省「令和6年 労働安全衛生調査(実態調査)」
  • 厚生労働省「あかるい職場応援団 — データで見るハラスメント」