退職面談で「もっと早く気づけばよかった」と言う人は多い。しかし私が20年の人事経験で最も厄介だと感じたのは、成果を出しているのに「自分はダメだ」と思い続ける人の存在だった。
周囲から見れば優秀。評価も悪くない。なのに本人は常に不安を抱えている。「たまたまうまくいっただけ」「いつかバレる」「本当の実力じゃない」——この状態が何年も続き、ある日突然、限界を超える。
心理学ではこれをインポスター症候群(Impostor Syndrome)と呼ぶ。1978年に臨床心理学者のポーリン・クランスとスザンヌ・アイムスが提唱した概念で、客観的な成功を収めているにもかかわらず、自分の能力を内面化できず「自分は偽物だ」と感じ続ける心理パターンだ。国際的な調査では知識労働者の約62%がこの傾向を経験するとされ、決して珍しい状態ではない。
厚生労働省の令和6年「労働安全衛生調査」では、仕事に関して強いストレスを感じる労働者は68.3%に上る。マイナビの2026年バーンアウト調査では正社員の17.3%がバーンアウト状態にあり、バーンアウト者の38.0%が孤独感を感じている。この中に、能力があるのに自信を持てない人が相当数含まれている。
退職面談1000件の経験から、インポスター症候群で壊れる人には3つの構造パターンがある。
パターン1:成果を「たまたま」「運」「周りのおかげ」と処理してしまう——成果の内在化が止まっている
退職面談で本当に言われるのは、「評価されていたのは知っています。でも、それが自分の実力だとは思えなかった」という言葉だ。
このタイプの人は、成功体験を外部要因に帰属させる。プロジェクトがうまくいけば「チームが優秀だった」。売上目標を達成すれば「市場環境がよかっただけ」。昇格すれば「人がいなかっただけ」。
一方で、失敗は100%自分のせいだと処理する。この非対称な帰属パターンが、どれだけ成果を積んでも自己評価が更新されない構造を作る。
人事部の評価会議では、このタイプは「安定して成果を出す人材」として名前が挙がる。しかし本人の内側では「次こそ失敗する」「今回はたまたま」という不安が常に回り続けている。評価会議での客観評価と本人の主観評価が、完全に乖離しているのだ。
私が採用面接1500名を振り返って気づいたのは、面接で「自分の強みは何ですか」と聞かれて即答できない人の中に、このパターンが驚くほど多いということだった。能力がないのではない。能力を「自分のもの」として認識する回路が、どこかで止まっている。
パターン2:「バレたらどうしよう」という露見不安が常に走り続けている——慢性的な心理的緊張
インポスター症候群の2つ目の構造は、「いつか自分の無能さがバレる」という恐怖が背景で常に走り続けていることだ。
これは単なる不安ではない。会議で発言するたびに「的外れだと思われたのでは」と反芻し、メールを送るたびに「誤解を与えたのでは」と確認し、上司に呼ばれるたびに「ミスが発覚したのでは」と身構える。この常時警戒モードが、膨大な心理的エネルギーを消費し続ける。
横浜市立大学と産業医科大学の2025年共同研究では、メンタル不調を抱えながら働くプレゼンティーズムによる経済損失は年間7.6兆円、GDPの約1.1%に相当すると試算された。インポスター症候群の人は、まさにこのプレゼンティーズムの典型だ。出勤はしている。成果も出している。だが心の中では常に消耗が続いている。
退職面談で、あるマネージャーがこう言った。「毎朝、今日こそボロが出ると思って出社していました。10年間ずっと。辞めて初めて、あの緊張が普通じゃなかったと気づきました」。
日本リカバリー協会の2025年調査では、「疲れている人」は7172万人と過去最高を記録した。この中に、能力以上に自分を追い込む「見えない疲労」を抱えた人がどれだけいるか。数字には表れないが、退職面談ではその姿が見える。
パターン3:「もっとやらないと」が限界基準を際限なく引き上げる——過剰努力と自己否定の無限ループ
3つ目のパターンは最も危険だ。「自分は実力不足だ」という前提から出発するため、過剰な努力でそれを補おうとする。そして努力の結果、成果が出る。だが成果が出ても「努力したから当然」と処理され、自己評価は更新されない。
すると「もっとやらないと」と基準が上がる。120%で走って100点を取り、次は130%を要求する。この無限ループが回り始めると、限界基準が際限なく引き上げられ、本人は自分がどこまで消耗しているかわからなくなる。
採用側の論理で言うと、このタイプは面接では極めて優秀に映る。準備が徹底的で、受け答えに隙がなく、入社後も高いパフォーマンスを発揮する。しかし評価会議で「安定している」と判断される裏で、本人は毎日綱渡りをしている感覚で働いている。
パーソル総合研究所の2024年調査では、20代男性の18.5%、20代女性の23.3%がメンタルヘルス不調を経験している。若年層ほど「まだ実力が足りない」と感じやすく、インポスター症候群との相乗効果で消耗が加速する構造がある。
朝6時に起きてヨガで頭を整理し、午前中にこうした構造を文章にしながら私が考えるのは、この無限ループの入口はいつも同じだということだ。「成果が出たのに、なぜか安心できない」——この違和感を言語化できるかどうかが、壊れるかどうかの分岐点になる。
インポスター症候群で壊れる人の末路——退職面談で見た3つの結末
結末1:突然の離脱。周囲からは「なぜあの人が?」と驚かれる。本人は何年も前から限界だったが、誰にも言えなかった。
結末2:体が先に壊れる。不眠、動悸、胃痛。仕事のパフォーマンスは維持されているが、体がSOSを出し始める。
結末3:転職しても同じパターンを繰り返す。環境が変わっても「自分は偽物だ」という信念が更新されないため、次の職場でも同じ過剰努力と消耗が始まる。
自己点検3ステップ——「自分もそうかもしれない」と思ったら
ステップ1:過去1年の成果を3つ書き出し、「それは本当にたまたまか?」と問う。
成果を書き出した後、「同じ部署の他の人でも同じ結果を出せたか?」と自問する。多くの場合、答えはNoだ。それはたまたまではなく、あなたの能力だ。
ステップ2:「バレる不安」の中身を具体的に書き出す。
「何がバレるのか」を具体化する。大半の場合、バレるものの正体は存在しない。漠然とした不安を言語化するだけで、その不安の実体のなさに気づける。
ステップ3:信頼できる1人に「実は自分に自信がない」と伝える。
退職面談1000件で最も多い後悔は「もっと早く誰かに話していれば」だった。インポスター症候群の人は、弱みを見せることを極端に恐れる。しかし、言語化した瞬間に「自分だけじゃなかった」と気づくケースが圧倒的に多い。
よくある質問
Q1. インポスター症候群は病気ですか?
医学的な診断名ではありません。ただし、放置すると不安障害やうつ病のリスクを高めることが複数の研究で示されています。「自分は大丈夫」と思い込むこと自体がこの症候群の特徴なので、少しでも思い当たる場合は専門家への相談を検討してください。
Q2. 男性よりも女性に多いのですか?
当初の研究(1978年)では女性に焦点が当てられましたが、その後の調査で性別を問わず発生することがわかっています。ただし、KPMG調査では女性リーダーの75%が経験しており、女性が少数派の職場ではより顕著になる傾向があります。退職面談の経験では、男女差よりも「成果を出しているのに自分を認められない」という構造が共通していました。
Q3. 上司や人事に相談すべきですか?
人事部の評価会議では、インポスター症候群を抱えた社員は「安定して成果を出す人」として扱われているため、相談しなければ問題として認識されません。ただし、相談する場合は「自信がありません」ではなく「自分の評価と周囲の評価にギャップを感じている」と伝えるほうが、人事として具体的な対応がしやすくなります。
Q4. 転職すれば解決しますか?
環境依存の問題であれば転職で解決しますが、インポスター症候群は自己認識の構造の問題です。退職面談1000件の経験では、転職を繰り返しても「自分は偽物だ」という感覚が消えなかった人が一定数いました。転職の前に、まず自分の成果を客観的に棚卸しすることをお勧めします。
Q5. インポスター症候群を克服した人に共通することは?
退職面談ではなく、在職中に改善した人のパターンとして共通するのは「成果を事業貢献の数字で記録する習慣を持った」ことです。感覚ではなく事実で自己評価を更新する仕組みを作った人は、「たまたま」という処理が減り、自分の能力を構造的に認識できるようになっていました。
まとめ
「仕事はできているのに自信が持てない」は、能力不足でも性格の問題でもない。成果を外部要因に帰属させ、露見不安で消耗し、過剰努力で限界基準を引き上げ続ける——この3つの構造パターンが、優秀な人を静かに壊していく。
退職面談で「5年前の自分なら今ここにいるか」と問うと、インポスター症候群を抱えていた人ほど長い沈黙が続く。そして多くの人がこう答える。「5年前の自分のほうが、まだ自分を信じていた」。
もし今、成果を出しているのに安心できないなら、それは怠けでも甘えでもない。構造の問題だ。そして構造は、気づいた瞬間から変えられる。
参考文献
- 厚生労働省「令和6年 労働安全衛生調査(実態調査)」(2025年8月公表)——仕事に関して強いストレスを感じる労働者68.3%
- マイナビ「正社員のバーンアウト(燃え尽き症候群)に関する実態調査」(2026年6月)——正社員の17.3%がバーンアウト状態、バーンアウト者の38.0%が孤独感
- 横浜市立大学・産業医科大学共同研究(2025年5月、Journal of Occupational and Environmental Medicine掲載)——メンタル不調によるプレゼンティーズム経済損失 年間7.6兆円
- パーソル総合研究所「若手従業員のメンタルヘルス不調についての定量調査」(2024年12月)——20代男性18.5%・20代女性23.3%がメンタルヘルス不調経験
- 日本リカバリー協会「日本の疲労状況2025」(2025年5月)——疲れている人7172万人、過去最高
- Clance, P. R., & Imes, S. A. (1978). The impostor phenomenon in high achieving women. Psychotherapy: Theory, Research & Practice, 15(3), 241-247.





