「上司のことを人事に相談したのに、何も変わらなかった」
退職面談1000件を担当してきた中で、この言葉を何度聞いたか数えきれません。
厚生労働省の令和5年度調査によると、パワハラを受けた人の36.9%が「何もしなかった」と回答しています。そして、何もしなかった理由の最多は「何をしても解決にならないと思ったから」(65.6%)。
この数字を見ると、相談しても無駄だと思っている人がいかに多いかがわかります。
しかし、採用側の論理で言うと、人事が動かないのは怠慢ではありません。人事部には「動けない構造」が存在しています。
20年間、上場企業の人事部で採用責任者と退職面談を担当してきた立場から、人事が動かない3つの構造的理由と、相談を通すための伝え方をお伝えします。
構造1:相談が「感情の吐き出し」で止まっていて、事実が届いていない
退職面談で最も多いパターンがこれです。
「上司がひどい」「もう限界です」——こうした感情の訴えは、人事の立場では動くための材料にならないのです。
人事部には事実確認義務があります。相談を受けたら、「いつ」「どこで」「何が起きたか」を確認し、相手方にもヒアリングし、事実認定を行う必要があります。
感情だけが届いた場合、人事にできるのは「気にかけておく」くらいです。それは怠慢ではなく、動くための情報が足りていないのです。
人事部の評価会議では、相談を上げてこない社員は「問題がない社員」として処理されます。そして、感情だけで上がってきた相談は「対応済み」として処理されます。どちらも結果は同じ——何も変わりません。
私自身、人事1年目の頃に退職面談で表面的な理由しか出ないことが続き、「直近3ヶ月で最も嫌だった出来事は何ですか」「同期にこの会社を薦めますか」「5年前の自分なら今ここにいると思いますか」の3つの問いを確立しました。本音率は3割から8割に上がりました。つまり、本音は問いの設計で引き出せる。これは人事への相談にも当てはまります。
構造2:人事には「すぐ動けない制約」が3つある
人事に相談した翌週に状況が変わることは、構造上ほぼありません。
人事部が動くまでに超えなければならないハードルは3つあります。
①事実確認義務
相談内容について、相手方への聞き取りを行い、双方の言い分を突き合わせます。一方の話だけで処分や異動はできません。これだけで2〜4週間かかることも珍しくありません。
②部署間調整
異動や配置転換で解決する場合、受け入れ先の部署との調整が必要です。人事部だけでは決められない領域です。
③評価サイクルとの連動
多くの企業では異動は評価サイクル(半期・四半期)に連動しています。相談から目に見える変化まで、数ヶ月かかることは構造的に避けられないのです。
日経ビジネスの独自調査では、人事部経験のない社員の約9割が人事部に不満を感じているという結果が出ています。しかし、この不満の多くは「人事の怠慢」ではなく、「人事の構造的制約が見えていない」ことから生まれています。
構造3:「誰にも言っていない」期間が長すぎて手遅れになっている
退職面談で本当に言われるのは、「もっと早く相談すればよかった」という後悔です。
退職面談1000件の経験から言えるのは、限界を超えてからの相談は、人事がどんな手を打っても間に合わないということです。
パワハラ被害者の36.9%が「何もしなかった」。そして、仕事やキャリアの相談に関するアンケートでは、67%が「職場の人に相談できない」と回答しています。男性はさらに高く72%です。
相談窓口を設置しても、半数以上の企業で「従業員が活用していない」という調査結果もあります。制度はあるのに使われていない。これは個人の問題ではなく、相談の心理的安全性が設計されていない組織の問題です。
朝のヨガを終えて横浜港を散歩しながら考えることがあります。退職面談で「もっと早く言えばよかった」と語る人たちは、全員が相談する能力を持っていました。足りなかったのは能力ではなく、相談しても安全だという確信です。
人事に相談を通すための3ステップ
人事部の構造的制約を理解した上で、相談を確実に通すための方法を3つお伝えします。
ステップ1:事実の3点セットを記録する
感情ではなく、「いつ・何が起きたか・業務への影響」の3点を記録してください。
- 日時:「6月15日の14時、会議室Aで」
- 事実:「全員の前で30分間、過去のミスを繰り返し指摘された」
- 影響:「翌日から出社前に動悸が出るようになり、業務効率が落ちている」
この3点があれば、人事は事実確認に動けます。感情だけでは動けませんが、事実があれば動かざるを得ません。
ステップ2:要望を1つに絞る
「上司を変えてほしい」「異動したい」「残業を減らしてほしい」——全部を一度に言うと、人事は優先順位をつけられません。
最も解決したいことを1つだけ伝えてください。「直属の上司との1対1の業務報告を、週次からチーム報告に変えてほしい」のように、具体的で実現可能な要望ほど通りやすくなります。
ステップ3:2週間後のフォローアップを約束する
相談して終わりにしないでください。「2週間後にまたお話しさせていただけますか」と、次の面談の日程をその場で決めること。
これには2つの効果があります。1つは、人事に「期限がある案件」として認識させること。もう1つは、あなた自身が「相談した事実」を記録として残せることです。
よくある質問(FAQ)
Q1. 人事に相談したら評価に影響しませんか?
相談したこと自体が評価に直接影響することは、制度上ありません。ただし、感情的に訴えるだけだと「不満が多い社員」というラベルが付くリスクはあります。事実ベースで伝えることで、むしろ「課題を構造的に捉えられる社員」として認識されます。
Q2. 人事に相談しても変わらなかった場合、次にどこに相談すべきですか?
社内で動かない場合は、労働基準監督署の総合労働相談コーナー(無料)や、社外の相談窓口を利用してください。厚生労働省のデータでは総合労働相談件数は5年連続で120万件を超えており、多くの人が利用しています。
Q3. メールと対面、どちらで相談すべきですか?
最初はメールで事実の3点セットを送り、対面で補足する2段構えが効果的です。メールは記録として残るため、人事側も「対応しなかった」とは言えなくなります。
Q4. 匿名で相談しても対応してもらえますか?
匿名相談は受け付ける企業が増えていますが、事実確認の精度が下がるため対応が遅くなる傾向があります。可能であれば実名で、事実ベースで伝えるほうが解決は早くなります。
Q5. 相談してから結果が出るまで、どのくらいかかりますか?
事実確認に2〜4週間、部署間調整を含めると1〜3ヶ月が一般的です。評価サイクルに連動する異動の場合はさらに長くなります。構造上、即日解決はほぼありません。
まとめ:人事が動かないのは「構造」の問題。構造を知れば、伝え方は変えられる
人事に相談しても動かない最大の原因は、人事の怠慢ではなく、相談が感情のまま届いており、事実・影響・要望の3要素が欠けていることです。
人事部には事実確認義務・部署間調整・評価サイクルという3つの構造的制約があり、相談から目に見える変化まで数ヶ月かかることは珍しくありません。
退職面談で最も多い後悔は「もっと早く相談すればよかった」です。限界を超えてからの相談は、人事がどんな手を打っても間に合わない。
今の職場で何かを変えたいと感じているなら、事実の3点セットを1つだけ書き出すことから始めてみてください。
参考文献
- 厚生労働省「令和5年度 職場のハラスメントに関する実態調査報告書」(2024年5月公表)
- 日経ビジネス「独自アンケート、9割は人事部に不満 行動を起こさない」(2024年)
- 株式会社ミズカラ「仕事やキャリアの相談に関するアンケート調査」(67%が職場の人に相談できないと回答)
- 厚生労働省「令和6年 労働安全衛生調査(実態調査)」
- オフィスのミカタ「従業員が相談窓口を活用していない 半数以上」調査






