「退職日は月末ではなく、前日の方がお得ですよ」——退職手続きの面談で、人事担当者からこう提案された経験がある方は少なくないだろう。

社労士として独立してから、この提案を受けて退職日を変更した結果、国民年金と国民健康保険の手続きに追われ、トータルで損をしたという相談が後を絶たない。朝5時に起きて行政通達を確認するのが日課の私だが、この問題に関しては制度の仕組みを正確に理解すれば、損得の判断は明確になる。

退職日が1日違うだけで社会保険料の構造が変わる理由

まず、厚生年金保険法第14条の基本ルールを押さえたい。社会保険の資格喪失日は「退職日の翌日」と定められている。つまり——

  • 月末退職(例:6月30日退職)→ 資格喪失日は7月1日 → 6月分まで厚生年金・健康保険の保険料が発生
  • 月末前日退職(例:6月29日退職)→ 資格喪失日は6月30日 → 5月分までで厚生年金・健康保険の保険料が終了

社会保険料は日割り計算ではなく月単位で発生し、「月末時点で資格があるかどうか」でその月の保険料負担が決まる。退職日が1日違うだけで、1ヶ月分の保険料が丸ごと変わるのはこの仕組みによる。

会社側が月末前日退職を勧める3つの誘導パターン

監督官時代に見たのは、会社が退職日を月末前日に誘導する手口が驚くほど定型化していることだ。3つのパターンに分類できる。

パターン1:「お得ですよ」善意装い型

「月末退職だと社会保険料が2ヶ月分引かれて手取りが減りますよ。前日にすれば1ヶ月分で済みます」と、あたかも従業員の利益であるかのように提案するパターン。最も多い。実際には、会社側が折半負担する社会保険料1ヶ月分(数万円)を節約するのが本当の目的だ。

パターン2:退職届の日付を書き換え誘導型

退職届に「6月30日」と書いたのに、「事務処理の都合上、6月29日にしてもらえますか」と日付変更を依頼するパターン。退職日は労働者が決定する権利であり、民法627条に基づく退職の自由は強行法規だ。会社の承認は不要であることを知っておくべきだろう。

パターン3:有給消化との組み合わせ型

「最終出勤日を月末前日にして、有給消化期間を前倒しにしましょう」と提案し、結果として退職日自体を月末前日に設定させるパターン。有給消化の計画と退職日は別の問題であり、退職日は月末のまま、最終出勤日だけを調整すれば有給消化は問題なく可能だ。

月末前日退職が「損」になる具体的な計算

「手取りが増える」は表面上の話にすぎない。月末前日退職の場合、退職月の社会保険の資格を失うため、以下の手続きと負担が発生する。

ケース:年収480万円の会社員が6月29日に退職した場合

項目月末退職(6/30)月末前日退職(6/29)
6月分の厚生年金保険料約37,500円(会社と折半)なし
6月分の健康保険料約20,000円(会社と折半)なし
6月分の国民年金保険料なし17,920円(2026年度・全額自己負担)
6月分の国民健康保険料なし約30,000〜40,000円(全額自己負担・自治体により異なる)
将来の厚生年金受給額への影響6月分も加算6月分は国民年金のみ(受給額が減少)

手取りだけを見れば月末前日退職のほうが給与天引きは少ない。しかし、国民年金保険料と国民健康保険料を自分で支払う必要があり、しかも全額自己負担だ。厚生年金の場合は会社が半額を負担してくれるため、トータルの保険料負担は月末退職のほうが軽くなるケースが大半である。

さらに見落とされがちなのが、将来の年金受給額への影響だ。厚生年金と国民年金では将来の受給額に差がある。1ヶ月分とはいえ、厚生年金の加入期間が短くなることは長期的な損失につながる。

月末前日退職が「得」になる例外ケース

ただし、すべてのケースで月末退職が有利とは限らない。以下の場合は月末前日退職にメリットがある。

  • 翌日から配偶者の扶養に入る場合:国民年金第3号被保険者、健康保険の被扶養者になれば、退職月の保険料負担がゼロになる
  • 翌日から次の会社の社会保険に加入する場合:転職先の資格取得日が退職月内であれば、空白なく厚生年金に加入でき、国民年金・国保の手続きが不要

これらの例外に該当しない限り、月末退職を選択するのが合理的だ。

退職届で退職日を守るための3ステップ

社労士事務所に相談に来る方の多くが、会社の誘導に乗って退職日を変更してしまった後に来る。行政指導の対象になります——とまでは言えないが、退職日の変更は労働者にとって不利になりうる行為だ。以下の3ステップで自分の退職日を守ってほしい。

  1. 退職届に月末日を明記する:「令和8年○月○日をもって退職いたします」と月末日を記載。退職「届」(辞職の意思表示)を使う
  2. 日付変更を求められたら理由を書面で確認する:「退職日変更の理由と、変更による社会保険料・年金への影響を書面でご説明ください」と返す。書面での回答を求めるだけで、誘導が止まるケースが多い
  3. 変更に応じない場合は内容証明郵便で退職届を送付:宛先を代表取締役にすることで、人事権者への到達を争われるリスクを排除できる。到達日から2週間で雇用契約は終了する

FAQ

Q1. 月末退職だと最後の給与から社会保険料が2ヶ月分引かれるのはなぜ?

多くの会社では社会保険料を「翌月控除」しているため、最後の給与で前月分と当月分の2ヶ月分が天引きされます。ただし、これは「余計に払っている」のではなく、正規の保険料です。2ヶ月分引かれること自体は損ではありません。

Q2. 退職日を会社に勝手に変更されることはある?

退職届の退職日は労働者が決定する権利です。会社が一方的に変更することは法的に認められません。退職届と退職願の違いに注意し、退職「届」として提出すれば、会社の承諾なく退職日が確定します。

Q3. 月末前日退職で国民年金の手続きを忘れた場合はどうなる?

退職月に社会保険の空白が生じた場合、国民年金への加入手続きは退職日の翌日から14日以内に行う必要があります(国民年金法第12条)。手続きを忘れても保険料の納付義務は発生し、未納期間は将来の年金受給額に直接影響します。

Q4. すでに月末前日で退職届を出してしまった場合、撤回できる?

退職届は会社に到達した時点で効力が生じます(到達主義)。ただし、会社との合意があれば退職日の変更は可能です。人事部門に「社会保険の継続を希望するため退職日を月末に変更したい」と書面で申し出てください。

Q5. 退職日を月末にすることで会社に嫌がられないか?

退職日は民法627条に基づく労働者の権利であり、会社の承認は不要です。「社会保険料の関係で月末退職にします」と淡々と伝えれば十分です。それでも圧力がある場合は、総合労働相談コーナーに相談できます。

まとめ

退職日が1日違うだけで社会保険料の負担構造が大きく変わる。会社側は折半負担1ヶ月分を回避できるため、月末前日退職を勧めるインセンティブがある。しかし、国民年金・国民健康保険への切り替え負担と将来の年金減額を加味すれば、月末退職がトータルで有利になるケースが大半だ。

退職日は労働者が決定できる権利であり、会社の承認は不要だ。退職届に月末日を明記し、変更を求められたら書面で理由を確認する——このシンプルな原則を守るだけで、社会保険料の無駄な損失を防げる。

参考文献