「やりたい仕事があるけど、年収が100万円下がる。受け入れていいのだろうか」——転職相談でこの問いに直面する人は少なくない。

厚生労働省の令和6年雇用動向調査によれば、転職入職者のうち前職より賃金が「減少」した人は29.4%。約3人に1人が年収ダウンを経験している。一方、マイナビ転職動向調査2026年版では転職率が7.6%と過去最高を記録し、転職者の52.6%がキャリア停滞感を理由に動いている。

つまり、「このままではいけない」と感じて動いた結果、年収が下がるケースは構造的に増えている。問題は、年収が下がること自体ではない。年収が下がる転職を「感情」で決めるか「構造」で決めるか——この違いが、1年後の後悔を決定的に分ける。

私は上場企業の人事部で20年、採用責任者として1500名以上の面接を行い、退職面談は1000件を超える。その中で、年収ダウン転職をして1年以内に再転職を考え始める人と、年収は下がったのに満足度が上がった人の両方を見てきた。両者を分けるのは金額の差ではない。判断の構造に3つの違いがある。

判断軸1:「年収」だけを見ていて「報酬の総量」を計算していない

年収ダウン転職で後悔する人の大半は、額面の年収だけで損得を判断している。しかし採用側の論理で言うと、報酬は年収だけで構成されていない。

たとえば、年収が80万円下がっても、残業が月30時間減れば時給換算では上がっている可能性がある。住宅手当・退職金制度・確定拠出年金のマッチング拠出・福利厚生の現物支給——これらを含めた「報酬の総量」で比較しなければ、損得判断は成り立たない。

退職面談で本当に言われるのは、「年収が上がったから転職したのに、残業が倍になって時給は下がっていた」という後悔だ。逆もまた然りで、年収が下がっても報酬の総量が維持されていれば、生活の質は変わらないどころか上がることもある。

doda転職理由ランキング2025年版では「給与が低い・昇給が見込めない」が5年連続1位(36.9%)だが、この不満の正体は額面の絶対値ではなく、「投入した時間と労力に対するリターンが見合っていない」という感覚だ。だからこそ、年収の数字だけを比較しても判断は狂う。

判断軸1の処方箋:「実質時給」と「3年後の生涯報酬」で比較する

年収ダウンの許容範囲を決めるとき、以下の2つを計算する。

①実質時給の比較:(年収+福利厚生の金銭換算)÷(年間総労働時間)で現職と転職先を比較する。年収が下がっても実質時給が上がるなら、それは「報酬が下がった」のではなく「働き方が変わった」だけだ。

②3年後の生涯報酬シミュレーション:転職先の昇給カーブと現職の昇給カーブを3年単位で比較する。オファー面談で「入社後の昇給イメージ」を聞くことは、採用側の論理で言うと全く失礼ではない。むしろ、人事部の評価会議では「中長期の報酬設計を理解しようとする候補者」は定着率が高いと評価される。

判断軸2:「やりたいこと」はあるが「市場で何が積めるか」を言語化していない

年収ダウン転職で最も危険なパターンは、「やりがい」だけで飛び込むケースだ。

1500名の面接で見てきた中で、年収ダウンを受け入れて転職した人のうち、1年後に満足している人には共通点がある。それは、年収が下がる代わりに「市場価値として積み上がるもの」を具体的に言語化できていたことだ。

「やりたいことができる」は動機としては正しい。しかし、「やりたいこと」は環境が変われば消えることがある。一方、「この転職で積めるスキル・実績・人脈は、3年後の自分の市場価値をいくら押し上げるか」——この問いに答えられる人は、年収が下がっても後悔しない。

マイナビ転職動向調査2026年版で転職率が過去最高の7.6%を記録し、ワークポート2026年春調査で離職理由1位が「スキル停滞」(36.8%)であることからも、キャリアの通貨は年収ではなく市場価値であることが見えてくる。

朝6時に起きてヨガをしながら考えることがある。面接で「年収が下がっても御社で働きたい」と言う候補者のうち、採用後に活躍する人は、「下がった年収を3年で取り戻すキャリアパス」を自分の言葉で描けている人だ。描けていない人は、入社後にやりがいが期待と違った瞬間に、年収ダウンの不満が一気に噴き出す。

判断軸2の処方箋:「スキル資産の棚卸し」をしてから決める

年収ダウンを受け入れる前に、転職先で積めるものを3つ書き出す。

この転職でしか積めないスキルは何か(現職では絶対に得られない経験)
そのスキルの市場価値はいくらか(転職サイトで同スキル保持者の年収レンジを確認)
3年後に今の年収を超えるシナリオは描けるか(昇給・転職・独立のどのルートでも構わない)

この3つが書けるなら、年収ダウンは「投資」として合理的だ。書けないなら、それは投資ではなく「逃避」の可能性が高い。

判断軸3:「現職の不満」と「転職先への期待」を分離していない

年収ダウン転職で後悔する人の3つ目の共通点は、現職への不満と転職先への期待を混同していることだ。

退職面談1000件のデータで、年収ダウン転職をして1年以内に再転職を検討した人に理由を聞くと、最も多い答えは「思っていたのと違った」だ。識学の転職後悔調査でも転職者の59.7%が後悔を経験し、その上位理由は「給与が思ったより低かった」「組織風土が合わなかった」だった。

しかし、この「思っていたのと違った」を深掘りすると、転職先に過剰な期待を載せていた構造が見えてくる。現職の不満が大きいほど、転職先が「理想の職場」に見えてしまう。年収が下がっても、それ以外のすべてが改善されるはずだ——この無意識の期待が、入社後のギャップを生む。

人事部の評価会議では、中途入社者の入社後評価を半年単位で確認する。年収ダウンを受け入れて入社した人のうち、半年後に評価が安定している人は、入社前に「この転職で解決すること」と「解決しないこと」を分けていた人だ。

判断軸3の処方箋:「不満10個の3分類」で転職の必要性を検証する

現職の不満を10個書き出し、以下の3つに分類する。

①仕組みの問題(評価制度・給与テーブル・組織構造)——転職でしか解決できない
②人の問題(上司・同僚・部下との関係)——異動や時間経過で変わる可能性がある
③自分の問題(スキル不足・コミュニケーション・思考の癖)——転職しても再現される

①が過半数を占めるなら、年収が下がっても転職する合理性がある。②や③が多いなら、転職先でも同じ不満が再現されるリスクが高く、年収だけが下がる結果になりかねない。

年収ダウン転職の「本当のリスク」は金額ではない

年収が下がること自体は、キャリア上の致命傷ではない。厚労省令和6年雇用動向調査でも、転職入職者の40.5%が前職より賃金が増加しており、年収は転職を重ねる中で回復する可能性がある。

本当のリスクは、年収が下がった転職を「失敗だった」と感じたまま、次の転職でも感情で動いてしまうことだ。退職面談で聞いた限り、転職を繰り返す人の大半は最初の転職で判断の構造を持たなかったことが起点になっている。

採用面接1500名のデータを振り返ると、年収ダウン転職の経験がある候補者に対して面接官が最も知りたいのは、「なぜ年収が下がる転職をしたのか」と「その結果をどう評価しているか」の2点だ。この問いに構造的に答えられる人は、年収ダウンの経歴がむしろプラスに評価される。答えられない人は、「計画性がないのでは」というラベルが貼られる。

実践3ステップ:年収ダウン転職を「投資」に変える判断法

ステップ1:報酬の総量を数字で比較する

年収だけでなく、福利厚生・退職金・労働時間を含めた「実質時給」と「3年累計報酬」を計算する。この数字が現職と同等または上回るなら、年収ダウンは見かけ上のものに過ぎない。

ステップ2:転職先で積めるスキル資産を3つ書き出す

「やりたいこと」ではなく「積めるもの」で判断する。3年後の市場価値がいくら上がるかを、転職サイトの年収データで検証する。書き出せないなら、その転職は投資ではなく逃避かもしれない。

ステップ3:不満を10個書き出して3分類する

仕組み・人・自分の3つに分類し、仕組みの問題が過半数を占めるかを確認する。年収を下げてまで転職する価値があるのは、転職でしか解決できない構造的問題がある場合だけだ。

よくある質問(FAQ)

Q1. 年収ダウンの許容範囲は何割までですか?

A. 一般的には「1割以内」が目安とされますが、額面だけで判断すると見誤ります。福利厚生・退職金・労働時間を含めた実質時給で比較してください。実質時給が維持されていれば、額面が1割以上下がっても生活の質は変わらないケースが多くあります。

Q2. 年収が下がる転職をすると、次の転職でも年収が上がりにくくなりますか?

A. 採用側の論理で言うと、前職年収は参考値に過ぎません。年収はポジションの市場価値×本人の実績で決まるため、年収ダウン転職の経験があっても、転職先で積んだスキルと実績が評価されれば年収は回復します。ただし、年収ダウンの理由を構造的に説明できないと、面接で「計画性がない」と判断されるリスクはあります。

Q3. 年収が下がっても転職すべきサインはありますか?

A. 現職の不満を10個書き出して3分類したとき、「仕組みの問題」が7個以上あり、かつ転職先で積めるスキル資産を3つ以上書き出せるなら、年収ダウンでも動く合理性があります。逆に、不満の大半が「人の問題」や「自分の問題」なら、転職しても同じ構造が再現される可能性が高いです。

Q4. オファー面談で年収交渉をしたら年収ダウン幅を縮められますか?

A. 可能です。ただし、交渉の基準は「前職年収」ではなく「ポジション価値×自分の実績」で伝えてください。転職先の給与テーブルの構造を理解した上で、等級判定に影響する根拠を示す方が効果的です。年収交渉で内定が取り消されるケースは、20年の人事経験で一度もありません。

Q5. 家族に年収ダウン転職を反対されたらどうすればいいですか?

A. 感情ではなく数字で共有してください。実質時給の比較・3年後の報酬シミュレーション・転職先で積めるスキル資産の3点をデータで示せば、反対が賛成に変わるケースは多いです。エン・ジャパン2026年調査では、家族の反対で転職をとりやめた人は44%ですが、その大半は「反対されるかもしれないから話していない」という自己完結型の諦めです。実際にデータで説明して反対された割合は23%に過ぎません。

参考文献

  • 厚生労働省「令和6年雇用動向調査結果の概況」転職入職者の賃金変動状況(2025年公表)
  • マイナビ「転職動向調査2026年版(2025年実績)」転職率7.6%・キャリア停滞感52.6%
  • doda「転職理由ランキング2025年版」給与が低い・昇給が見込めない36.9%が5年連続1位
  • ワークポート「2026年春 離職理由調査」スキル停滞36.8%が1位

年収が下がる転職を迷っているなら、まず実質時給を計算してほしい。額面の年収だけを見て「損をする」と判断するのは、採用側の論理で言うと最も危険な意思決定だ。年収は下がっても、報酬の総量・スキル資産・不満の構造——この3つの軸で検証すれば、その転職が「投資」なのか「逃避」なのかは数字で判断できる。