10月の第一週、大企業では人事異動の辞令が出ることが多い。毎年この時期になると、「転勤を断りたい」「異動を拒否したらどうなるのか」と検索する人が増える。

20年間、人事部で評価会議を運営してきた立場から正直に言う。異動命令を断ることは、制度上できる場合もあるし、できない場合もある。問題はその後だ。「断った事実」が評価会議でどう処理されるかを知らないまま断ると、3年後のキャリアに思わぬ影響が出る。

エン株式会社の2025年調査によると、転勤辞令に対する社員の反応は「配慮要望」43%、「拒否」24%、「退職」11%という結果が出ている。つまり、転勤辞令を受けた社員の4人に1人が拒否を選んでいる。しかし、拒否した後どうなったのかの実態は、会社側のデータとしては表に出てこない。

私は評価会議で、異動命令を断った社員がその後どう扱われたかを20年間見てきた。今回はその現実を構造で整理する。

まず確認すべき:法律上、異動命令は断れるか?

感情論の前に法律の構造を押さえておく必要がある。日本の労働法において、就業規則に異動・転勤の規定がある場合、原則として会社は転勤を命じる権限を持つ。これを「人事権」という。

ただし、最高裁判所が東亜ペイント事件(昭和61年)で示した判断基準では、以下の3つのいずれかに該当する場合、転勤命令は権利の濫用として無効になり得る。

  • 業務上の必要性がない:合理的な事業上の理由が認められない
  • 不当な動機・目的がある:嫌がらせや退職強要が目的の転勤
  • 通常甘受すべき程度を著しく超える不利益がある:介護・子の就学・配偶者の就業など、具体的な生活上の不利益

また、2024年4月以降の法改正により、雇用契約書や就業規則に「就業場所の変更範囲」を明示することが義務化された。「転居を伴う転勤なし」「○○本社に限る」などの記載があれば、一方的な転勤命令は認められない。

マイナビの「転勤と転職に関する調査レポート2026年」では、転職希望者の68.8%が転勤のある会社で働きたくないと回答し、前年比3.5ポイント増加している。社会的な転勤忌避の流れの中で、企業側も法的根拠の確認を求められる場面が増えている。

採用側の論理で言うと、異動命令を断る前に「自分の雇用契約書と就業規則に何が書かれているか」を確認する作業は必須だ。感情で動く前に、まずここを確認してほしい。

評価会議で見た:異動を断った人のその後3パターン

法律論と評価会議の現実は別物だ。「断れる権利がある」と「断った後も評価が下がらない」は同義ではない。ここからが本題だ。

パターン1:「具体的な生活上の事情+代替案」で断った人は再任用で考慮される

評価会議で名前が消えなかった人の共通点は、断り方が「感情」ではなく「構造」だったことだ。

具体例を出すと、こういうケースだ。子どもが来年受験で転居が難しいこと、その期間は2年間であること、2年後には転勤に応じられること——これを文書で人事に出した人がいた。評価会議でその情報は「配慮事項」として記録され、2年後の転勤候補リストに残った。断ったのに評価が下がらなかった。

人事部の評価会議では、「いつまでの事情か」「代替案は何か」がある断り方は「生活上の理由で一時的に応じられない」として処理される。「管理職を断った」記事でも触れたが、評価会議のラベルは更新される——更新するための情報を人事側に渡せた場合に限る。

パターン2:理由を言語化できずに断った人には「扱いにくい」ラベルが貼られる

「転勤は嫌です」「行けません」だけで断ると、評価会議でどう処理されるか。

率直に言う。「協調性に問題あり」ではなく「指示に従いにくい社員」として記録される。これは人格評価ではなく、人事側の機能評価だ。評価会議では「この人は次の辞令もまた断るか?」という問いが出る。答えが「断る可能性が高い」になると、その人は異動候補から外れる。異動候補から外れることは、一見ラッキーに見える。しかし現実には、昇進や抜擢の候補からも外れる。

パーソル総合研究所が2025年に発表したデータでも、「転勤制度があるだけで離職リスクが高まる」という知見が報告されているが、問題の本質は転勤制度の有無より、拒否後の情報設計にある。

パターン3:黙って受け入れてから3年後に転職する人

実は評価会議で最も多く見てきたパターンがこれだ。

断れないと思って渋々受け入れ、3年間転勤先で消化試合のように過ごし、転職市場に出る。退職面談で本当に言われるのは「断れるとは思っていなかった」「相談できる場所がなかった」という言葉だ。

このパターンの問題は、本人が「受け入れた」と認識しているが評価会議では「不満を抱えたまま異動した社員」として扱われている点だ。転勤先でのパフォーマンスが通常より低くなることが多く、評価が下がるケースもある。断ることと、受け入れながら条件交渉をすることの間の選択肢が、視野に入っていない人が多い。

受け入れる前にやるべき:条件交渉の3ステップ

「断るか受け入れるか」の2択で考えていると、最も有効な選択肢を見落とす。受け入れる場合でも、交渉できる余地がある。

Step 1:「受け入れ表明の前に」条件確認期間を2週間確保する

辞令が出た当日に「わかりました」と言う必要はない。人事側も即答を求めているわけではなく、「辞令を承知しました、生活の調整が必要なため2週間以内に正式回答します」と伝えることは合理的な対応として受け取られる。

この2週間で確認すること:就業規則の転勤条件・手当・転居費用の補助内容・任期の目安。

Step 2:家族の状況を「数字」で伝える

「家族がいるので難しい」は情報量がゼロだ。評価会議では判断する根拠にならない。

伝えるべきは具体数値だ。「子どもが来年4月に中学受験を控えており、転居できるとしても最短2026年9月以降になる」「同居の親が要介護2で、転居先での介護手配には少なくとも3ヶ月かかる」——この水準の情報が、人事側の意思決定に影響する。

採用側の論理で言うと、曖昧な理由には人事も動けない。動けるのは「具体的な制約と時期の見通し」がある場合だ。

Step 3:「時期」と「業務移管」を具体的に提案する

受け入れる意思があることを前提に、以下を提案する:いつまでに現在の業務を移管できるか、現任地でのプロジェクト完了まで半年の猶予を求める、など。

これは交渉であって、拒否ではない。評価会議ではこの姿勢の違いが明確に記録される。

それでも断る場合:「構造的断り方」の設計

受け入れが真に不可能な場合の断り方にも構造がある。

人事部の評価会議に残る断り方は以下の要素を含む:

  1. 断れる根拠(就業規則の記載・採用時の合意・法律上の3条件のいずれかへの該当)
  2. 現在の状況の具体的な説明(介護・就学・配偶者の就業等、数字で示せるもの)
  3. 期間の明示(この状況がいつまで続くか、または永続的かの見通し)
  4. 代替案の提示(現任地での役割継続・テレワークの活用・半年後の再検討を求める等)

東京商工リサーチの2025年調査では、大企業の38.0%が転勤を理由とした退職を経験していると報告されている。会社側も転勤による離職コストを意識し始めており、「断られたら終わり」という時代ではなくなりつつある。

ただし一点、人事部の評価会議ではっきり言える事実がある。断った後に何も言わなかった人と、断った後も「条件が整えば応じる意思がある」を人事に伝え続けた人では、3年後のキャリアの扱いが異なる。ラベルは更新できる——更新するための行動を取った人に限り。

まとめ:断る前に確認すべき3つの事実

  • 法律上の根拠を確認する:就業規則・雇用契約書・東亜ペイント基準の3要件
  • 評価会議での影響を把握した上で断る:感情的な拒否と構造的な断りは、その後のキャリアへの影響が異なる
  • 「断るか受け入れるか」の2択ではなく「条件交渉」の選択肢を持つ:期間・代替案・具体事情を提示することで、評価会議でのラベルが変わる

人事部の評価会議では、辞令に対する反応そのものより、「その後どう動いたか」のほうが記録として残る。断った事実は変わらないが、断った後の行動次第でラベルは書き換えられる。


よくある質問(FAQ)

Q1. 異動命令を断ったら解雇されますか?

即座に解雇されることはありません。解雇には客観的・合理的な理由が必要で(労働契約法第16条)、一度の異動拒否では解雇の合理的理由になりません。ただし、繰り返しの拒否や業務命令への全般的な不服従が続くと、懲戒処分の対象になる可能性があります。まず人事・労務の専門家に相談することを勧めます。

Q2. 就業規則に「異動命令に従う」と書いてある場合でも断れますか?

就業規則に規定があっても、東亜ペイント事件(最高裁昭和61年)で示された「権利濫用」の3要件に該当する場合は命令が無効となります。特に「通常甘受すべき程度を著しく超える不利益」に当たる場合(介護・子の就学・重篤な疾病)は、具体的な事情を文書で人事に申し出ることが重要です。

Q3. 家族の介護を理由に断る場合、何を準備すればいいですか?

要介護認定書のコピー、介護している家族との続柄を示す書類、介護の具体的状況(週何時間・何が必要か)の記録、転居した場合に誰が介護を引き継ぐのかの見通し——これらを文書で人事に提出することで、「通常甘受すべき程度を著しく超える不利益」として認められる可能性が高まります。感情的な説明より、書面での事実提示が有効です。

Q4. 断った後、昇進に影響しますか?

断り方によって異なります。具体的な事情と期間・代替案を提示した場合は「一時的な配慮事項」として処理され、昇進候補から外れないケースが多い。感情的な拒否や理由の言語化がない場合は、評価会議で「指示に従いにくい社員」として記録が残るリスクがあります。断った後も、人事との定期的なコミュニケーションを維持することが重要です。

Q5. テレワーク勤務で転勤を回避できますか?

会社がテレワーク制度を持っている場合、「テレワークで業務継続できる旨」を代替案として提示することは交渉の有効な手段です。ただし、会社側に「テレワークで業務が完結する」という判断をしてもらう必要があるため、自分の業務の性質とテレワーク実績を具体的に示すことが前提になります。


参考文献

  • エン株式会社「転勤に関する企業の実態調査」(2025年)— 転勤辞令に対する社員の反応:配慮要望43%、拒否24%、退職11%
  • マイナビ「転勤と転職に関する調査レポート2026年(個人・企業)」— 転職希望者の68.8%が転勤のある会社で働きたくないと回答(前年比3.5ポイント増)
  • パーソル総合研究所「転勤に関する定量調査」(2024年)— 不本意な転勤制度があるだけで離職リスクが高まることを示した調査
  • 東京商工リサーチ「転勤」実態調査(2025年)— 大企業の38.0%が転勤による退職を経験
  • 最高裁判所判決「東亜ペイント事件」(昭和61年7月14日)— 配転命令の権利濫用判断基準(3要件)の確立
  • 厚生労働省「労働基準法関係法令の施行通達」(2024年)— 雇用契約書における就業場所・業務変更の範囲の明示義務化