「最近ちゃんと眠れていますか」——退職面談で私が必ず聞く問いの一つだ。
答えを言葉にしなくても、反応でわかる。少し目をそらして「まあ、ぼちぼち」と言う人は、たいていここ数ヶ月、夜中に目が覚めている。
厚生労働省令和6年労働安全衛生調査によれば、強いストレスを感じる労働者は68.3%にのぼる。厚生労働省「健康づくりのための睡眠ガイド2023」では、成人の約30%が慢性的な不眠症状を抱えているとされているが、そのうち仕事上の不安が主要因になっているケースは相当数にのぼると考えられている。
退職面談で本当に言われるのは、「もっと早く誰かに話せばよかった」という後悔と、もう一つ——「最後の半年、まともに眠れた夜がなかった」という言葉だ。
本記事では、仕事の不安で眠れない夜が続く状態が「意志の問題」ではなく構造的な問題であることを、退職面談1000件・採用面接1500名・評価会議20年の経験から整理する。
なぜ「意志の強さ」では解決しないのか
「考えすぎない練習をすればいい」「気にしなければいい」——こういうアドバイスをもらった経験がある人は多いと思う。しかし、仕事の不安で眠れない状態は、気合いの問題ではない。脳の処理構造の問題だ。
3つの構造的なパターンを解説する。
構造パターン1:昼間の感情が「後払い」で夜に届く
仕事中、人は意識的にも無意識にも感情の処理を先送りにしている。
上司に理不尽な指摘をされても、「今は仕事に集中する」と感情を棚上げにする。プロジェクトの不安を抱えていても、「今日中に終わらせなければ」と処理を後回しにする。これ自体は仕事をこなすための正常な適応だ。
問題は夜に起きる。昼間に棚上げにされた感情の処理コストが、静寂の中で一気に請求されてくる。スマホを置いて横になった瞬間に「そういえばあの件は…」と次々と浮かんでくるのは、脳がやっと処理の時間を確保できたからだ。これは意志の弱さではなく、昼間の仕事モードと夜の安静モードの切り替えによって起きる自動的な処理の「後払い」だ。
この後払いが毎晩続くと、処理容量そのものが縮小していく。横浜市立大学2025年研究が報告するプレゼンティーズムによる経済損失年間7.6兆円の背景には、こうした「仕事中は動けているが夜に回復できていない状態」が相当数含まれていると私は見ている。採用側の論理で言うと、面接で「夜によく考え込んでしまう」と話す候補者の多くは、日中のパフォーマンスはまだ維持できていても、認知リソースの相当な部分を夜の処理に消耗させてしまっている。
構造パターン2:「明日どうなるか」という反芻思考が脳を覚醒させ続ける
眠れない夜に多くの人がやっていること——それは、最悪のシナリオを繰り返しリハーサルすることだ。
「明日、あの件を指摘されたらどう答えよう」「もし評価が下がったら」「チームに迷惑をかけてしまったかもしれない」——こうした思考は、心理学でいう反芻思考(ルミネーション)に近い状態だ。解決できない問題を何度も繰り返し考え続けることで、脳は「危機はまだ続いている」と判断し、覚醒状態を維持しようとする。
反芻思考のもう一つの特徴は、「考え続けても答えが出ない」ことだ。仕事上の不安の多くは、夜中に一人で考えても解決できない性質のものだ。解決できない問いを繰り返すことで、思考は深みにはまっていく。パーソル総合研究所2024年の若手メンタルヘルス調査では、メンタル不調を抱えた若手社員の多くが「夜になると考えすぎてしまう」という状態を経験していることが示されている。これは個人の弱さではなく、職場のストレス構造が夜の脳に転写される構造的な反応だ。
構造パターン3:「眠れない自分」を責めてさらに眠れなくなる
3つ目のパターンは、最も見落とされやすい。
眠れない夜が続くと、次第に「また眠れなかった。明日もつらい」「こんな状態でまともに仕事ができるのか」という自責が加わる。この自責が新たなストレス反応を引き起こし、コルチゾール(ストレスホルモン)が上昇することでさらに脳が覚醒してしまう。「眠れない→自責→さらに眠れない」というループだ。そして、「今日こそ眠ろう」と頑張るほど、眠れなくなる。
退職面談で本当に言われるのは、「眠れない夜が続いていることを、誰にも言えなかった」という言葉だ。上司は評価に影響する、同僚は噂になる、人事には言いにくい——この3重ブロックが、眠れないことへの自責をさらに孤立した状態に追い込む。
人事部の評価会議では、このタイプの社員は「安定している」と処理されがちだ。日中のパフォーマンスが維持されているからだ。しかし退職面談で実際に聞こえてくるのは、「安定していたのではなく、夜に壊れていただけで、朝になると修復して出社していた」という言葉だ。この3ヶ月で急激に状態が悪化したわけではなく、じわじわと半年かけて夜から壊れていたというケースが退職面談では繰り返し出てくる。
自己点検3ステップ
眠れない夜が「一時的なもの」か「構造的な消耗サイン」かを判別するために、以下の3ステップを試してほしい。
ステップ1:2週間、眠れなかった夜を記録する
何時に目が覚めたか、その時頭に浮かんでいたテーマを翌朝に一言だけメモする。2週間続けてみて、週3回以上眠れない夜がある場合は、構造的な消耗が始まっている可能性が高い。厚生労働省「健康づくりのための睡眠ガイド2023」では、不眠症状が週3回以上・1ヶ月以上続く場合を慢性不眠として専門家への相談を推奨している。
ステップ2:「不安の正体」を1つだけ紙に書き出す
夜中に考えていたことを「翌朝、紙に書き出す」と決める。書き出すことで、漠然とした不安が具体的なテーマになる。具体化されれば「これは今夜解決できる問題か」「明日誰に相談できるか」という処理が可能になる。私は横浜港を散歩しながら考え事を整理する習慣があるが、体を動かしながら頭を使うことで反芻が止まりやすくなる。動ける環境にない夜は、紙に書き出すことがその代替になる。
ステップ3:「最近よく眠れていない」と1人に伝える
職場の上司や同僚でなくて構わない。家族でも、職場外の友人でも、産業カウンセラーでも。言語化した瞬間に、孤立した不安の膨張が止まる。退職面談1000件で早期に状態を言語化できた人と、限界まで黙っていた人では、回復までの期間に大きな差がある。
受診を考えるタイミング
以下の状態が2週間以上続いている場合は、睡眠専門外来または心療内科への相談を検討してほしい。
- 週3回以上、眠るまでに30分以上かかる、または夜中に目が覚めて眠れなくなる
- 日中の集中力や判断力に影響が出始めている
- 「眠ろうとすること」自体が怖くなっている
人事部の評価会議では、健康上の問題で休職取得した事実が評価のマイナスになることはほとんどない。睡眠に問題を抱えたまま職場で機能低下が続く期間の方が、評価への影響は大きい。人事部の評価会議で「最近パフォーマンスが落ちている」という報告が上がる頃には、本人は何ヶ月も眠れていない状態が続いていることが多い。
FAQ
- Q1. 仕事の不安で眠れない夜はどのくらいで改善しますか?
- 原因となるストレス因が変わらない限り、自然には改善しにくい。厚生労働省「健康づくりのための睡眠ガイド2023」では、不眠症状が1ヶ月以上続く場合は専門家への相談を推奨している。2週間以上続いているなら、一時的なものではなく構造的な消耗と考えた方がよい。
- Q2. 夜中に目が覚めたとき、今すぐできることはありますか?
- 「眠ろうとしない」ことが逆説的に有効なことがある。目が覚めたら一度起き上がり、暗い場所で3〜5分だけ「今頭にあること」を紙に書き出す。書き終えたら「今夜はここまで」と決めて横になる。眠ろうとするプレッシャーをいったん手放すことで、眠りやすくなることがある。スマホの画面は避けること。
- Q3. 上司や会社に「眠れていない」と相談してもいいですか?
- 直属の上司への相談が難しい場合は、産業医や社内の相談窓口が選択肢になる。採用側の論理で言うと、早めに状態を申告した社員の方が、気づかれずに突然動けなくなった社員よりも組織的な対処が早く取れる。「眠れていない」という申告は職務能力の問題の開示ではなく、体調管理上の早期相談として処理される。
- Q4. 転職すれば眠れるようになりますか?
- 環境が変わることで改善するケースもある。しかし、「昼間の感情の後払い」「反芻思考」「自責ループ」という3つの構造が自分のパターンとして固定化している場合、環境を変えても同じ構造が再現されることがある。転職前に、今の状態を一度専門家と整理することを勧める。
- Q5. 眠れないことを人事に相談したら評価に影響しますか?
- 人事部の評価会議では、健康相談を行ったこと自体が評価のマイナスになることはほとんどない。評価に影響するのは、相談をせずに業務品質が低下した場合だ。早期相談は評価ではなく、回復を早める行動として処理される。
参考文献
- 厚生労働省「令和6年労働安全衛生調査(実態調査)」2024年
- 厚生労働省「健康づくりのための睡眠ガイド2023」2024年
- 横浜市立大学医学部「プレゼンティーズムの経済損失に関する研究」2025年
- パーソル総合研究所「若手正社員のメンタルヘルスに関する定量調査」2024年
- マイナビ「2026年版バーンアウト(燃え尽き症候群)に関する調査」2026年






