「退職を伝えたら、退職願を出してくださいと言われた」
こういう相談は、社労士事務所を開いてから3年間で何十件も受けている。退職届ではなく退職願、というこだわりを持つ会社は多い。慣習として定着しているケースもあれば、意図的に退職願を求めているケースもある。
この2つの書類は、名前が似ているが法的な性質がまったく異なる。どちらを出すかによって、退職の成立タイミングも、撤回の可否も、会社との交渉力も変わってくる。
労基署での7年を経て独立した今も、朝のコーヒー豆を手挽きしながら判例集に目を通すのが習慣だが、この退職届と退職願の問題は、読み直すたびに実務との乖離を感じるテーマのひとつだ。以下、法的根拠を踏まえて整理する。
退職届と退職願:2つの書類の法的性質
退職届は「辞職の一方的通知」
退職届は、労働者が使用者に対して行う一方的な解約の意思表示だ。
民法第627条第1項によると、期間の定めのない雇用契約においては、当事者はいつでも解約の申入れをすることができ、申入れから2週間が経過すると雇用が終了する。退職届の提出はこの「解約の申入れ」にあたり、会社の承諾は法的に不要だ。
一度提出した退職届は、原則として撤回できない。これは最高裁昭和62年大隈鉄工所事件の判断とも整合しており、労働者が確定的な辞職の意思を表明した場合、使用者側はその意思を覆す手段を持たない。
退職願は「合意退職の申し込み」
一方、退職願は法的な性質がまったく異なる。これは労働契約の合意解約に向けた申し込みの意思表示であり、会社が承諾して初めて退職が成立する。
言い換えれば、退職願を出した段階では退職はまだ確定していない。会社が「承諾する」と明示するまでの間、労働者は退職願を撤回することができる(ロア・ユナイテッド法律事務所の解釈も同様)。ただし逆もまた真で、会社が承諾を留保したまま「もう少し待ってほしい」と引き延ばすことも、退職願では理論上可能だ。
| 比較項目 | 退職届 | 退職願 |
|---|---|---|
| 法的性質 | 辞職の一方的通知 | 合意退職の申し込み |
| 会社の承諾 | 不要 | 必要 |
| 退職の成立 | 申入れから2週間後(民法627条) | 会社が承諾したとき |
| 撤回の可否 | 原則不可 | 承諾前なら可 |
| 会社の引き延ばし | 不可 | 理論上可能 |
会社が「退職願」を求める3つの本音
監督官時代に見たのは、会社が退職届ではなく退職願を求める場面のパターンだ。理由は主に3つある。
理由1:撤回の余地を残して引き止めたい
退職願なら、会社が承諾するまで退職は確定しない。「家族と相談してからもう一度考えてくれ」「あと3ヶ月だけいてくれれば退職を認める」といった慰留の余地を会社側が持てる。退職届だと2週間で法的に退職が成立するため、会社がコントロールできる期間が生まれない。
理由2:退職のタイミングを自社に有利に調整したい
プロジェクトの区切りまで待ってほしい、後任が決まるまで退職を認めない——こういう話は珍しくない。退職届では「申入れから2週間」という法的な期限が動き出してしまうが、退職願であれば承諾のタイミングをコントロールできる。
理由3:助成金の受給要件を満たすために「自己都合」扱いにしたい
雇用関連の助成金の中には、会社都合退職者(解雇・勧奨退職)を出した場合に受給資格を失うものがある。そのため、実態が会社側の都合による退職であっても、退職願に「一身上の都合」と書かせることで「自己都合退職」として処理しようとするケースがある。行政指導の対象になります、という話でもあるが、表面上の書類では判別しにくい。
就業規則に「退職願を提出せよ」と書いてある場合はどうなるか
「うちの会社の就業規則には退職願を1ヶ月前に提出と書いてある」という相談も多い。
民法第627条第1項によると、退職の意思表示から2週間で雇用契約は終了する。この規定は強行規定であり、就業規則に「1ヶ月前」と書いてあっても、民法627条が優先する。最低2週間を超える予告期間を強制する就業規則の規定は、一般的に無効と解釈される。
また、就業規則に「退職願を提出する義務」が定められていたとしても、それは手続き上の慣行を定めたものにすぎない。退職届を提出することで退職の法的効果(2週間後の労働契約終了)は発生するため、会社が退職届を「就業規則と違う書類だ」として受理を拒否することに法的根拠はない。
どちらを出すべきか:3つの判断基準
基準1:退職の意思が固まっているか
退職の意思がすでに固まっており、会社との交渉余地が必要ない場合は退職届が適切だ。2週間後に退職が法的に成立するため、会社の承諾を待つ必要がない。
基準2:会社との合意を重視するか
退職日を柔軟に調整したい、円満退職を優先したいという場合は退職願から入ることもある。ただし、会社が承諾を引き延ばす可能性を理解した上で使うことが前提だ。
基準3:引き止めや圧力が想定されるか
「辞めさせない」と言われる可能性がある場合、「考え直せ」と迫られることが想定される場合は、最初から退職届を選ぶべきだ。退職願では撤回を迫られるリスクが残る。
退職届で確実に退職を成立させる3つの手順
手順1:記載事項を確認して退職届を作成する
退職届には「退職届」というタイトル、退職理由(「一身上の都合により」が一般的)、退職希望日、提出日、氏名を記載する。退職願と誤解されないよう、タイトルは明確に「退職届」とすること。
手順2:直属の上司または人事部門に手渡しまたは内容証明郵便で提出する
可能であれば手渡しで提出し、受け取った日付と担当者名を控えておく。手渡しを拒否された場合や、提出したことを証明する必要がある場合は、内容証明郵便を利用する。内容証明郵便であれば、いつ・何を・誰に送ったかが郵便局に記録される。
手順3:提出から2週間後の退職日を計算して動く
民法第627条第1項に基づき、退職届の提出日の翌日から2週間後が法的な退職日となる。就業規則で1ヶ月前を定めている場合も、2週間の法的効果は覆らない。ただし、引き継ぎ期間を考慮して、実務的には希望退職日を2週間以上先に設定することが多い。
よくある質問(FAQ)
Q1. 退職願を出してしまった後でも退職届に切り替えられるか?
会社が退職願を承諾する前であれば、撤回して退職届を改めて提出することは可能だ。承諾後の場合は合意退職が成立しているため、切り替えには会社側の同意が必要になる。
Q2. 「退職届は受け取れない、退職願でなければ困る」と言われた場合はどうするか?
民法第627条に基づく退職届の提出は労働者の権利であり、会社が拒否することに法的根拠はない。受取を拒否された場合は、内容証明郵便で送付することで、提出の事実と日付を証明できる。申入れから2週間が経過すれば、会社の承諾がなくても退職は法的に成立する。
Q3. 就業規則で「退職1ヶ月前に退職願提出」と定められている場合、違反したことになるか?
民法第627条第1項は強行規定であり、就業規則の1ヶ月前規定は法律上の効力を持たない。ただし、引き継ぎ期間として実務的に配慮することは望ましい。就業規則の規定違反を理由に損害賠償を請求されるケースは、実務上は稀であり、実際に認容された判例も限られている。
Q4. 退職願と退職届、形式(封書・メール等)に決まりはあるか?
法律上の形式規定はなく、口頭でも退職の意思表示は有効だ。ただし、後日のトラブルを防ぐために書面での提出が基本となる。電子メールでの提出が認められるかは会社の内規次第だが、内容証明郵便が最も証明力が高い。
Q5. 退職届を出した後、会社から損害賠償を請求されることはあるか?
引き継ぎをまったく行わずに突然退職したケースで損害賠償が認められた事例はあるが、単に法定期間(2週間)で退職しただけで賠償責任が生じることは原則としてない。民法627条に基づく退職行為そのものを違法とは言えない。
まとめ
退職届と退職願は、名称は似ているが法的性質がまったく異なる書類だ。退職届は民法第627条に基づく一方的な辞職通知であり、会社の承諾を必要とせず2週間で退職が成立する。退職願は合意退職の申し込みであり、会社が承諾するまで退職は確定しない。
会社から退職願を求められた場合、その理由を確認する価値はある。引き止めや時期の引き延ばしを目的としている可能性があるからだ。退職の意思が固まっているなら、退職届を選ぶことが退職を確実に成立させる最も確実な手段となる。
参考文献・法的根拠
- 民法第627条第1項(期間の定めのない雇用の解約申入れ)— e-Gov法令検索
- 大隈鉄工所事件(最高裁昭和62年9月18日判決 労判504号6頁)— 裁判所ウェブサイト
- 厚生労働省「確かめよう労働条件」退職・解雇・雇止めに関する解説 — mhlw.go.jp
- 大阪労働局「よくあるご質問(退職・解雇・雇止め)」— jsite.mhlw.go.jp






