「辞めたいと思っているのに、なかなか動けない」。そう打ち明けてくれた方と、退職面談という場で何度も向き合ってきました。Job総研が2026年に行った調査では、現在の職場に何らかの不満を抱えながらも転職・退職に踏み出していない層が54.9%に上ることが示されています。数字で見ると「半数以上」という規模感に驚きますが、実際の現場でその重さを肌で感じてきた身としては、むしろ「そうだろうな」と思う数字でもあります。

よく言われるのが「意志が弱いから動けない」という解釈です。でもこれは、ほとんどの場合まちがっています。1000件を超える退職面談で見えてきたのは、「動けない人」に共通する心理の構造があるということ。意志の問題ではなく、脳が持つ認知のクセが作り出す「ブレーキ」の問題なのです。

この記事では、そのブレーキの正体を3つに整理してお伝えします。「辞めたい」という感覚を持ちながら、なぜか一歩が踏み出せない方に読んでいただけると幸いです。

自分を責める必要はありません。まず、何が起きているのかを知ることから始めましょう。

「辞めたい」のに動けない人に共通するもの

退職面談の場でよく耳にするのが「もう少し様子を見てから」「タイミングがよければ」という言葉です。でも「もう少し」はいつまで経っても終わらない。「タイミング」はなかなか来ない。そのことに気づきながら、また1年が過ぎていく。

厚生労働省の令和6年版「労働経済の分析」によれば、転職希望者のうち実際に転職活動を開始しない主な理由として「失敗のリスクへの不安」「現職との関係を壊したくない」「準備不足の感覚」が上位を占めています。特定の業種や年代に限ったことではなく、働く人全般にわたる傾向です。

こうした「動けなさ」には、大きく3つの心理メカニズムが関わっています。それぞれ行動経済学・認知心理学の知見とも重なる、人間としての自然な反応です。問題はその反応が「今の自分にとって本当に必要な行動」を妨げている場合です。

ブレーキ①「今持っているものを失う」恐怖――損失回避バイアス

行動経済学の研究で広く知られているのが、損失回避バイアス(loss aversion)です。人は「何かを得る喜び」よりも「何かを失う痛み」を約2倍強く感じると言われています。

退職を考える場面でこれがどう作用するか。「今の給与」「同僚との関係」「安定した雇用」——これらはすでに持っているものです。辞めるという行動は、それらを手放すリスクを伴います。一方、転職後に得られるかもしれない「やりがい」「収入アップ」「自分らしい働き方」は、まだ手にしていない不確実なもの。

脳はこの2つを公平に比較しません。「今あるものを失う」というマイナスを過大評価し、「これから得られるもの」というプラスを過小評価する。だから「辞めたい気持ちはあるのに、踏み出せない」という状態が生まれるのです。

面談でこのパターンが出てきたとき、私はよく「今の職場を続けることで、失い続けているものはありませんか?」と聞き返すようにしていました。時間、健康、自分への信頼——失っているのは「辞める側」だけではありません。

ブレーキ②「まだ大丈夫」という感覚――正常性バイアス

「上司にまたきついことを言われた。でも、まあ今日だけかな」「もう3年間同じ状況だけど、もう少し経てば変わるかも」——退職面談では、こういった言葉が頻繁に登場します。

これは正常性バイアス(normalcy bias)と呼ばれる認知のクセです。異常な状況でも「これは普通のこと」「なんとかなる」と脳が判断し、危機感を和らげようとする働きをします。本来は災害時などに精神的な安定を保つための機能ですが、職場のような慢性的なストレス環境では逆効果になりえます。

以前、横浜港の近くで面談後によく散歩をしていたことがあります。港の景色を見ながら、「あの人は3年間"まだ大丈夫"と言い続けた。今日、初めて"限界かもしれない"と言ってくれた」と思い返したことがありました。正常性バイアスが強い人ほど、自分のSOSに気づくのが遅れる。そしてその分、消耗も深くなっていることが多かったです。

「まだ大丈夫」という声が自分の中にあるとき、一度だけ立ち止まって問い直してみてください。「何を根拠に大丈夫だと思っているのか」。事実として変化があるのか、それとも変化を「信じたい」だけなのか。

ブレーキ③「準備が整ったら動く」完璧主義的先送り

「もう少しスキルをつけてから」「お金が貯まったら」「次の評価を見てから」——動けない人のもうひとつの共通パターンが、この準備先送り型です。

ワークポートが2026年春に行った調査では、転職を検討しながら行動に移せていない人の36.8%が「自分のスキルや経験が不十分だと感じる」を理由に挙げています。準備が整ってから動く、という発想は一見まともに見えます。でも「整った状態」の定義が曖昧なままだと、その条件は永遠に達成されません。

また、完璧な準備を求めるほど、現在の職場への不満は棚上げされ、心身への負荷は蓄積し続けます。面談で出会った方の中に、「準備するために5年待った。でも気づいたら体を壊していた」と話してくれた方がいました。準備が整う前に、整えるための体力が失われていた。そういうケースを何件も見てきました。

動くためにすべてが揃っている必要はありません。「今の状態で踏み出せる最小の一歩は何か」を考える方が、多くの場合より現実的です。

自己点検3ステップ:自分のブレーキを確認する

3つのブレーキのうち、自分にどれが当てはまるかを確認するための簡単なステップを紹介します。

Step 1:「失うもの」リストを書いてみる

辞めることで失うと思っているものを、紙に全部書き出してください。給料、人間関係、安心感……何でも構いません。書き出したら、それぞれについて「本当に今の職場にしか存在しないか?」を確認します。損失回避バイアスは、「代替不可能」という錯覚を生みやすいです。

Step 2:「大丈夫」の根拠を検証する

「まだ大丈夫」という感覚があるなら、その根拠を具体的に言語化してみてください。「なんとなく」が出てきたら、それは正常性バイアスのサインかもしれません。1年前と比べて、職場環境や自分の状態は本当に変化していますか?

Step 3:「準備完了」の条件を定義する

「準備ができたら動く」と思っているなら、その条件を書いてみましょう。「TOEIC 700点以上」「貯金200万円」など、具体的に。そして、「その条件は本当に必要か?」「今すぐ動けない理由になっているか、それとも後回しの口実になっているか?」を自問してみます。

この3ステップはあくまでも自己認識のためのものです。答えが出なくても、問いを持つこと自体が、ブレーキに気づくきっかけになります。

よくある質問

Q1. 「辞めたい」という気持ちは本物なのか、一時的な感情なのかわかりません。
一般的に、職場への不満が「波のように来ては引く」場合は一時的な感情のことが多く、「ずっと底にある」場合は慢性的なものと考えられます。記録をつけて、3〜4週間後に読み返すのも有効な方法です。
Q2. 上司が怖くて辞めると言い出せません。
退職意思の伝達は、直属の上司以外のルートを使うことも選択肢です。人事部門への相談、退職代行サービスの利用、社内相談窓口の活用など、「直接言わなければいけない」という思い込みを外してみましょう。
Q3. 転職活動と現在の仕事を並行できる自信がありません。
転職活動の始め方はさまざまです。まずエージェントに登録して話を聞くだけ、職務経歴書を更新するだけ、といった「情報収集フェーズ」から入ることもできます。「フルで活動する」と決めなくていいです。
Q4. 家族のことを考えると怖くて動けません。
家族を守りたいという気持ちは自然ですが、「辞めること」が即「収入ゼロ」ではありません。転職先が決まってから辞める方法も、在職期間中に副業を検討する方法もあります。リスクを細分化して考えると、選択肢が広がります。
Q5. 自分だけが辞められないのかと思うと、ますます情けなくなります。
冒頭にも書きましたが、不満を抱えながら動けていない人は54.9%います。あなたは少数派ではありません。「情けない」のではなく、脳が自分を守ろうとしているだけです。その構造を知った上で、少しずつ行動を変えていけば十分です。

参考文献

  1. Job総研(2026年)「2026年版 仕事満足度・転職意向調査」。現職に不満を持ちながら転職行動に至らない層が54.9%と示された。
  2. 厚生労働省(令和6年)「令和6年版 労働経済の分析」。転職希望者が行動に移さない主な理由として失敗への不安・現職との関係・準備不足が上位に。
  3. マイナビ(2026年)「転職動向調査2026年版」。20〜40代の転職意識と行動開始のタイムラグに関するデータを提供。
  4. ワークポート(2026年春)「転職意識調査 2026年春」。転職未行動者の36.8%が「スキル・経験の不十分さ」を主因として回答。
  5. エン・ジャパン(2026年)「退職のリアル調査2026」。転職検討者のうち44%が退職に踏み出せない経験を持つと回答。